<サマディとモクシャは別物>
(注記)このページは、ババ様の教えではないが、自分が何度もひかかることなので、備忘録として書いてみた。
サマディとモクシャは別物。
最終段階になった人は戻ってこないので、サマディはまだ途中段階。
結局、死ぬときに神またはそれに相当(二ルグナなど)するものになる(染まる)ことが大切。
そのためには、心がサットワの状態にあって いつでも放棄できることが重要で日頃から鍛錬しておくのが望ましい。
ラジャヨガ、クリヤヨガ、ヒマラヤヨガなどのヨガの修行の中でで、プラーナマーヤ、スシュムナ、チャクラ、シッディ(サムヤマによる超能力)などが出てくる。
それらの能力を開花させるだけでは不十分で、本来は、浄化を伴いながら(カイバリヤ=神的状態に達する)目標に進むべきものらしい。
人の自然の成長ではなく(無理やり?)危険がともなうので、必ず良き指導者のもとで行うことが望ましいと云われている。武道と同じで本を読むだけでは伝えきれないことがおおいいのだろう。ネットではイージに扱っているものもあるが、本来は結構ハードな修行らしい。
(もともと頭の脳細胞は光明と比喩される意識を感じているので)わざわざ頭上を活性化させて(意識への感度?を上げて)大光明に入らなくても英知(JNANA)は得られるし、ごく短時間でよければ、それだけの状態(神的状態)を体験することは可能である。
最終目標に達することが出来るのならば、このヨガの方法は使わない方がいいだろう。
世の中に広がっている健康ためのヨガ、ハタヨガ(体操のヨガ)だけでは、助けにはなるかもしれないがサマディは得難いのはよくわかる。
話は変わるが、苦行によっても何かしら神秘的な力(超能力?)を得ることが出来るらしいが詳細は分からない。苦行を6年間実践したブッタが云っているように苦行の道は悟りへの正解ではないのだろう。瞑想によって悟りに至ったと伝わる。
以下はディヤーナ バヒニ(Dhyana Vahini)の参考部分:
Another special thing about Namasmarana is ・・・
Therefore, reflect within yourself which among these two is sweeter. 神の名と神の名を繰り返し唱えることと瞑想(Nama, Japa and Dhyana) vs ヨガと苦行おこなうこと(Yoga and Tapas)
パタンジャリのラジャヨーガは、意識的に想念を取り除く業であるが、ババの教える業は神の信愛による業である。
以下はサマディの種類について:
サマディの呼び方は、文献(スートラやベーダなど)によって異なってるらしい(のが混乱の元である)。
大まかに分けると、sa(伴う) と nir(not否定)があるらしい。つまり、分別(vikalpa)がまだ伴うものと、完全に無いもの。尋(vitarka)があるもの、無いもの。伺(vichara)があるもの、無いもの。種(bija)が残るもの、ないもの。
仮に「種」とは次の行動に結びつく要因とするならば、(最終と云われる)種が無いものは理論上 戻ってこなくなると考えられる(本当かな?)。無いものに直ぐに入れる訳ではなく、相応の歳月をかけてピュアになってからで、その過程ですべての残業が抜けるのであろうか。又は、単にそれに入る業自体も放棄したことを云うのであろうか?
何が本当かよくわからない。

7th
Release
2025/12/8