<ダラーナ>

ダラーナの和訳は、一点集中である。
自分はその境地に達していないが、訓練を続けていくと引きこまれ集中が絶え間なく(上の)壺から(下の)壺へ油が注がれるごとく続く状態になるらしい。(このたとえに水ではなく油をつかっているのは何か意味があるのだろう。)
心は常に動きまわっているので、それを目的とする正しい方に引き戻す訓練が必要だ。楽器の練習のように、はじめはおぼつかない状態でも、何度も何度も繰り返していくうちに、だんだんスムーズにできるようになっていく。自分自身も忘れ 一つの想念 の状態になったらサマディと云われる状態のはじめの段階(サビカルパ サンディ  これに入ると呼吸と心臓が停止し体が硬直化するとも云われている)らしい。もし、この一つの想念(感じや思考)も停止したら、それは想念のないサマディ(ニルビカルパ サンディ)となるらしい。
集中した持続時間よりその純粋さ質の方が重要と考えられる。
ディヤーナは瞑想と和訳されるが、ヨガスートラでの段階を区別するものと和訳の瞑想の業とは意味合いが異なっている。


集中(瞑想)の対象に、神様の姿が推奨されている。仏教でも、神仏をひとつ選ぶと聞いたことがある。
集中が深まっていくと、その姿が消え、その背後にあるものに入っていく。自分はサイババそのものを対象としている。集中さが増して安定してくれば、それだけで満ち足りた気持ちになる。
(神格の名を繰り返して唱える)ジャパも甘くみてはいない。その効用も大きい。
何であれその背後にあるものは同じなので、はじめは表面的な姿を瞑想し、いずれ、その背後にあるより根源的なもに至るということだろう。曼荼羅(マンダラ)も神格の(無限にある)性質の一部を表現するもので、深い世界に入るための入り口と考えてよいのだろうか。


低俗な欲望はよく発生する。集中と意志の力によって、それを退けよ教える。
雑草取りと同じように、根っこから引き抜かないと またすぐに土の上から葉が出始める。
神様の名の集中により、日光を拡大鏡で1点に集中して火が発生し焼くごとく、邪悪なものを燃やすと云われている。 神様の名に限らず、光輝く神格以上にあって、集中により知性とこころの波を鎮めることにより、同じ効果があるのかもしれない。


霊性修行において、こころの浄化は不可欠だ。
欲望種子の衝動傾向を 瞑想とヨーガの火で焼くとあるが、瞑想を続け心を手なずけ落ち着かせていくと、自然と焼いたことになるのであろうか? ディヤーナとヨガの火が、しなびた心(マナス)の活動を灰へと減らしていくとの説明がある。




「目的地に向かう道を正しく守るならば、人は自らの内に満ち足りた気持ちをもち、至福の根源を自らの内から引き出します。それまで彼を悩ませ続けた欲望や野心、迷いと虚偽、動物的な欲求とたわむれは、すべて消え去ります。」

「瞑想の目的地に達するまでは、アサナと称される正しい姿勢によって修行しなさい。定められた規則どうりに、修行しなさい。目的地に達したならば、どこにいようとも瞑想することができます。」

「瞑想は生々流転の世を繰り返し生まれると云う苦病にたいする(中略)薬です。これと同時にもう一つの薬も飲まなくてはなりません。
それは満足と云う薬です。 」
「目的地に向かう道を正しく守るならば、人は自らの内に満ち足りた気持ちを持ち、至福の根源を自らの内から引き出します。」

「前世からもちこした欲望傾向の束縛から完全に自由でなくてはなりません。真の意味での解脱とは、この前世からもちこした欲望傾向から自由になった ことを云うのです。」

「至高神への信愛(プレマ)を培いなさい。(中略)川の途中の湖や浅瀬ではなく、至高神への信愛(プレマ)の大海に向けられ(指揮され)るなら、それはなんという神聖な仕事でしょうか。(中略)これが最高のモクシャです。」

(ディヤーナ・バヒニからの引用)

それは満足です。

「必要なものは何もない。
すべては幻である。
リーラである。」


Go Index5


  10th  Release 2025/12/13